妄想が生きる力になる
妄想ばかりしていると、なんだか、悪いイメージを持たれませんか?
妄想がなぜ、発生するのか、不思議ですよね。
《精神病者が妄想をつくるのは,「回復の試み」(フロイト)である.父の名の隠喩のかわりに妄想的隠喩( métaphore délirante)を自ら導入することで,不安定な謎の意味作用を安定化》
簡単に言うなれば、現実の不可解や不可能性を補ってくれるんですね。
もし、あなたが、素直に、現実の生活と、妄想が区別がつくのなら、積極的に、妄想されたら如何だろうか。
偶像や、妄想が、もし現実味を持って、あなたに実感されるなら、それは、あなたの力であり、武器になります。
現実では沢山の不可解に溢れています。
ときには、分からないことは分からないこととと認め、妄想や空想があなたの味方になります。
心が弱っていると、動けないときも沢山あるでしょう。
語弊はあるでしょうが、ネットやヴァーチャルな世界、さらにはゲームや漫画だって、創造的な妄想だと思います。
それらを消費しているとき、あなたは心地よいはずです。
昨今は、精神病に対する偏見や、内向的な人間は、批難されやすいでしょう。
しかし、現実を補うなにかは、生きる上でのペースメーカーでもあり、ストレスフルな現代人には、もはや必要悪ではないかと感じます。
どんな道具も扱い方を間違わなければ、すべてが武器になります。
とはいえ、娯楽は、純粋に楽しみたいものですけどね。
虚力という力強さ
なんだか最近良く耳にする「○○力」っていうワード。
よく、耳にしますよね。
「コミュニケーション力」
「女子力」
なんて、ことば。
でも、そんな力って、そもそもが、他人任せの主観的な尺度なんだよね。
他人がいてはじめて成立する力って危ういなって感じる。
他人が主観的に、そういう力がある/ない、なんて決めるしかない力って、かなり危うい。
大人しくても、巧くやれる人もいるし、喋れば良いものでもない。
ファッション研究して、鍛え上げても、自分だけでは、力の確信が持てなかったりして、頼るには危ういんだよね。
資本主義の社会では、必然的に、そういった観念に左右されちゃうけど、力って匙加減だよね。
結局、自他ともに認める自力っていうのは、仕事や自活に相応しいだけの「スキル」のほうが大事なんだと感じるよ。
スキルをスルーするくせに、他人がいないと成立しないような、不確かな力の顕示だけでは、争いしか生まないし、疲れるよね。
コミュニケーション力や女子力は、副次的なもんであって、過信は禁物だし、不必要な見栄の張り合いはやめなさいよね。